第二話 春へ

LOVE LETTERS

第二話 春へ作・カツセマサヒコ

「辞めた方がいいとわかっていても、諦められないものって、あるじゃないですか」
自傷気味に笑いながら、野田舞は言った。
シンプルなベージュのセーターにスキニーデニム。髪を耳にかけているせいか、ふとした動きで揺れる金色のイヤリングはやたらと目立った。33歳と聞いていたが、依頼人であるその人は実年齢よりずっと若いように見えた。ただ、初対面にも関わらず、その表情には少し疲れの色も見てとれた。
ラブレター専門の執筆・受け渡し代行業者「ラブレターズ・ポストマン」。そのWebサイトに野田舞から依頼があったのは、3日前のことだった。手紙の受け渡し日を指定する“決行日時”の欄は空欄。ラブレターを書こうと思ったが、渡すかどうかも悩んでいる依頼主にはこのパターンが多かった。彼女もそのうちのひとりなのだろう。
「決行日」が未定の場合、依頼を受けてから3日後に依頼主の元に訪問することが会社の営業方針によって決められている。運営サイトにもその注意書きは記されているが、「Webサイトの注意書きほど読まれない文章は、この世にない」と同僚が言うように、大抵の依頼主はポストマンが現れると虚を突かれた顔をした。
しかし、野田舞に限っては、「読まれない文章」も隅から隅まで読んだうえで依頼してきたようだった。チャイムを押し、社名を告げると、依頼主は宅急便を受け取るかのように軽快に玄関のドアを開け、「お待ちしてました」と招き入れた。
この仕事の存在を知っている人は極めて稀だ。話しても理解されないし、理解されたところで、実際に働いている姿を見たことがある人はほとんどいない。だから大抵の依頼主はまずこの職業が実在していたことに驚くが、「待っていた」と言われたのは初めてだった。こちらが虚を突かれたかたちとなり、少し驚かされた。
「本当に、いるんですね」
「ええ、本当に、います」
ショートボブが似合う依頼主は、私の存在を見て、どこか嬉しそうな様子すらあった。得体の知れない業者である私を招き入れた自宅は小綺麗な1LDKで、カウンターキッチンに垂直になるように置かれた木製のダイニングテーブルや、リビングの大半を占める大きめのL字ソファには、ひとり暮らしではない生活感を感じさせた。
「夫が、一週間前に、出て行って」
「ああ、なるほど」
部屋のインテリアをぼんやりと見回しながら、できるだけ関心がなさそうに答えて、月並みな予想を添える。
「じゃあ、今回執筆されるのは、その方に向けた手紙ですか?」
恋や愛のかたちがアメーバのように定まっていないように、ラブレターもまた、さまざまな意味を持つ。初恋の人へ届ける手紙、親から子へ渡される手紙、死者へと送られる手紙。色や形は違えど、そこに「愛」が存在すれば、全て自社の仕事の範疇だった。それ故、出ていかれた夫への手紙も、珍しいパターンではない。
「いえ、書きたい相手は、夫ではないんです」
ひどい現実から目を背けるように、視点を足元に落としながら依頼主は言った。
出された紅茶がダージリンではなくアールグレイであることを少し残念に思ったが、得意先で出された飲み物に文句を付けられるほど、こちらも偉くはなかった。テーブル越しに座った野田舞は、なぜ私を呼んだのか、その理由を話し始めた。
「簡潔に言いますね?」
「ええ、簡潔でも、複雑でも、どちらでも」
こちらのちょっとした発言にも、クスリと笑う仕草が印象的だった。きっと恋多き女性だったのだろうと予想した。
「不倫を、したんです。それが夫にばれ、家から出ていかれ、3日が経ちました」
自分に起きた出来事を整理するように、一節おきに指先で軽く机を叩きながら告げる。そこからこちらを一瞬見つめたかと思うと、またすぐ視線を落として「最低なんです」と、泣く寸前か笑う直前かわからない複雑な表情を作って言った。
「最低ってことも、ないでしょう?」
「いえ、だって、それでもまだ、私は不倫相手だった人のことが気になっています」
人生には「忘れられない存在」というのが何人か登場する。それは異性に限らず、下手したら人に限った話ですらない。もっとも美しい恋、もっとも醜いトラブル、もっとも悲しい友情、それらの瞬間に必ず自分以外の誰かがいて、その思い出と結びつくように、その人の存在を脳に強く、深く、刻み込む。彼女にとってその不倫相手もまた、そのうちのひとりとなるのだろうと思った。
哀しみと怒りを同時にぶつけるかのように、野田舞は静かでゆっくりとしたトーンで話を続ける。
「結婚すると、恋をしてはいけないってルール、とても簡単で、当たり前なことのはずだったのに、まったく受け入れられなくなっちゃって。好きになったつもりもなかったのに、いつのまにか、麻薬みたいに、その人と一緒にいられない時間が、ただただしんどいんです」
依頼主はグズリと鼻を鳴らした。テーブルの隅に置かれていたティッシュ箱に手を伸ばすと、それを彼女の前に置いた。
「ごめんなさい」
その謝罪が世間なのか、夫なのか、不倫相手なのか、それとも私に向けられたものなのか、一瞬わからなかった。じっと見つめていると、ゆっくりと2枚手に取ったティッシュで鼻をすすり、「好きになっちゃいけない人がいるというのは、とても、つらいです」と肩を震わせて言った。
そこで、ティーカップに涙が落ちた。
少し外に出て歩きましょうと提案したのは、私の方からだった。この仕事に就いて10年近く経つが、未だに依頼主の涙が苦手だった。別居状態であるとはいえ、既婚女性と自宅の1LDKにふたりきりというのもまた、気まずいものがあった。
落ち葉を踏みながら遊歩道を歩いていると、春まではまだ少し距離がありそうな風が通り過ぎる。思わず首をすくめるが、暖房の効きすぎた部屋から出たばかりの身には、そのくらいの温度が丁度よかった。
「私は、“してはいけない恋”など、ないと思っています」
赤信号だろうか。すぐ脇の車道を走る車がいなくなり、あたりが静かになったタイミングで依頼主に話しかける。
「どうして? 法律があるんだから、ダメじゃない?」
その法を犯した貴方に言われたくはないですと冗談のように言いたかったが、わざわざ笑う場面でも、否定する場面でもないと思った。
「たとえば、『やめといたほうがいい』と周りから言われる恋があったとして、それが本当にやめておくべきものだったとしても、周りから言われてやめられるくらいだったら、最初からその恋は、始まっていないんじゃないでしょうか」
依頼人は何かを懐かしむような顔で、足元に視線を落とした。
「結果、その期間が無駄になったとしても、経済的に負担を強いられることになろうとも、一度好きになってしまったら、いろいろなものを諦めて、飽きるまで走るのは仕方ないことなんじゃないでしょうか。だから、社会的、法律的な意味ではなく、本能的に見れば、してはいけない恋などないと、私は思います」
気休めのつもりで話し始めたが、我ながら真理をついたようにも思えた。
不倫相手や浮気相手を想って悩む依頼人の多くは、自分を肯定してくれる人を探している。長年この仕事を続けたうえで身に着いた勘だった。
「優しいんですね」
茶化すように、でもどこか悲しそうに笑った依頼人に、「それが、仕事ですから」と私は返す。
「郵便屋さんも、そういう恋の経験があるんですか?」
野田舞の行きたいところまで歩こうと提案したところ、隣駅まで歩きたいとオーダーされ、まさにそれを叶えようとしている最中だった。不思議な散歩の途中、依頼主から尋ねられる。
「そういう恋の経験?」
「“してはいけない恋”の、経験」
「ああ、なるほど」
「ポストマンは、プライベートを依頼主に明かさない方がいい」それは「ラブレターズ・ポストマン」の代表であり、かつてトップ営業マンだったアダムの教えだ。
プライベートの話は心の距離を縮める方法としては有効である一方、“恋愛のプロ”として扱われるポストマンとしては、言葉の説得力を欠如させてしまう可能性もあるとアダムは言った。自身の経験談で語られる恋愛のハウツーほど、普遍性に乏しいものはないからだ。
しかし、野田舞の性格を考えれば、今は徹底的に彼女の「共感者」でいることが大切なように感じた。自立するのはもう少し後でいいし、手紙も、もう少し整理がついてから書けばいいとも思えた。
「あるにはありましたが、だいぶ昔のことです」
少し遠慮がちに、でも白状するように、事実を伝えた。
「その恋は?」 
「やはり、実るものではありません。その人は遠くに行ってしまい、そのままです」
「そこから、どうやって乗り越えたの?」
「うん、そうですね。乗り越えた、という表現は、きっと間違っています。失恋したときに大切なことは、失くしたその恋を、きちんと過去のものに消化できるかどうかです。乗り越えてしまったら、それは“なかったもの”としてカウントしてしまう気がします」
少し説教臭いと思ったが、依頼主はすんなり受け入れたようだった。
「そっか、乗り越えるものじゃないんだ」
「ええ。あくまでも、個人的な意見ですが」
20分ほど歩いたところだろうか、依頼人は途中、自販機であたたかい缶コーヒーをふたつ買って、ひとつを私に手渡した。手袋越しにも熱がほんのりと伝わってくる。
「もうすぐ、駅です。疲れてないですか?」
「ええ。普段あまり運動しないので、少し足にきますが」
苦笑気味に答えると、「確かに運動が似合わなそう」と笑われた。
「どうして、隣駅まで歩こうと思ったんですか?」
駅前も閑散としていた。人が少ない駅は、どこか安心させる。
「この駅で、待ち合わせすることが多かったから」
依頼主はこちらに背を向けたまま、改札へと向かう階段を一段飛ばしで登って行く。
「夫にバレた日も、この駅のホームでさよならしたの。帰り際、女子高生が何かに苛立っていたのか、舌打ちをしていてね。なぜかその日は、それすら私に向けられたものに感じた。すれ違う全ての人が、私のことを犯罪者か何かのような目でみている気がした」
共感できないことではあったが、想像することはできた。殺人を犯したり、モノを盗んだりした人も、恐らくは同じような気持ちなのだろうなとなんとなく思った。
「野田さんは、強いですね」
本心で伝えた。
「どうして?」
依頼主は少し驚いた顔でこちらに振り向く。
「別れの場所というのは、傷が癒えないうちは、行きたがらない人が多いです」
「ああ、なるほど、分かる気がする」
「つらくないですか?」
「つらいです。つらいけど、でも、今は、そこから目を逸らさないで、徹底的に向き合って、落ち込むところまで落ち込んで、そこで、彼への想いに浸っていたいんです」
純愛とは何なのだろうかと、改めて考える。不倫ではあるが、彼女の、彼への想いは、きっと純度の高い愛で構成されているのではないかと思えた。
「手紙に書きたかったことは、何だったんですか?」
素直に聞いてみる。今なら、彼女は、言葉にできるのではないだろうか。
「キスしたかった」
「え」
「もう一度、キスがしたいって、それだけだったんです」
馬鹿みたいでしょう? もう33なのにと、自虐的に笑いながら依頼主は言う。
「あんな人がこの世界にいるなんて、思いもしなかった。言葉を交わしても、指をからませても、唇を重ねても、体を交わらせても、どれも、この世で得られるものとは思えなかった。それこそ、このまま死ねたらと思えるくらい、私たちは、なにもかもがぴったりだった。もともとが半分ずつで生まれてきていて、ふたりでようやく一人前なんじゃないかってくらい、一緒でいないと、不自然だった」
当然、夫となった人には、そこまでの感覚は得られなかったのだろう。既婚という大前提がある以上、ふたりは、出合ってしまったこと自体が最大の不幸だったのだと思った。
「あのキスは、おいしかったなあ」
陽が落ち始め、辺りをオレンジが包む。依頼主の表情がわかりづらくなった。わかりづらくなったが、きっと今、どこか満足そうな顔をしているのではないかと、そんなことを思った。
「あなたのキスはおいしい」
一度大きな恋の末に結婚したであろう女性が、再び別の人間と恋をする。一般的に見れば狂気とも取れるその行動の渦中にいる依頼人の発言もまた、狂気のそれと思えた。
しかし、自宅に戻ってきて野田舞が書いた手紙には、その言葉が何度も出てきた。私はそれをテーブルの向かいから見つめていた。「書きたいように書けばいいです」と伝えた以上、まずは見守る。これはどの依頼主にも共通してやっていることだった。
「もう二度と彼と話ができず、キスもできないと思うと、胸の奥がただれちゃいそうなくらい、痛くて、しんどいんです。だから、やっぱり、もう一度だけでも会いたい。今は、その気持ちを大事にしようと思いました。たとえ、誰かを傷つけたり、社会を敵に回したりしても」
夕焼けのホームで、野田舞はそう言った。
夫に不倫がバレたことを伝えると、彼はもう会わない方がいいと言って、姿を消したらしい。聞けば、お互いに既婚ではあるようだった。
「バレたら終わり」。まさに遊びのような恋だったのかもしれない。でも、少なくとも野田舞にとって、その遊びは、人生そのものより価値がある、魅力的すぎる時間だったのだろう。
壊れていく関係と、壊れていく感情。人生に「もしも」はないとわかっていながら、このふたりがもう少し早く出合っていたら、どうなっていただろうと想像せざるを得なかった。
「ねえ、郵便屋さん」
「はい、なんでしょう」
「春は、まだ来ないかなあ」
1LDKの一室の窓から、ビル群が見える。
そこに浮かぶ三日月を見ながら、ふたりの再会について想いを馳せる。
「手紙、ここから書き直していきましょうか」
私の仕事は、ここからだ。