書いては、消す。書いては、消す。
筆を取ってから、1行も進まないまま2時間が経とうとしていた。
そもそも何を書いたら正解になるのかもわからず、頭に浮かんだ言葉をそのまま便箋に残そうとペン先を動かしてみるが、ただただ稚拙な書き出しに呆れて、また消すことだけを繰り返した。
結果、テーブルの上には、消しゴムの屑と、気持ちを具現化したように冷めたコーヒーが無造作に置かれている。
手紙を書こう。
そう閃いたのは、もう雨谷遥(あまがいはるか)に想いを伝えられる方法が、それしか残されていないと思ったからだ。
遥がこの部屋を出ていって、7日が経った。まだたった7日だ。
西日がやたらと強く射し込むこの部屋には、遥がクローゼットから飛び出して「驚いたー?」と笑顔でからかってくるのではないかと思えるほど、まだ彼女の気配が残っていた。
その空気を少しでも変えたくて、レンタルビデオショップでジャケットだけ見て買ったCDを聴いてみるものの、今度は
『きっと来ないこと
わかってるけど
いまは帰れそうにないや』
わかってるけど
いまは帰れそうにないや』
と、サビでも何でもないフレーズが引っかかって、頭から離れなくなった。
きっと来ない。きっと来ない。きっと来ない。
別れてから、まだ7日。曜日ごとに違った顔をした遥が、脳内に浮かんでは消えた。その7日間は、彼女とこの部屋で過ごした1年半よりも、ずっとずっと長く感じられたのだった。
*
「別れたい」
そう告げたのは、私からだった。
オープンしたばかりで話題になっていた海岸沿いのスペイン料理店で早めの夕飯を済ませた私たちは、赤ワインの酔いを冷ますために宛もなく浜辺を散歩していた。
大きくなった夕日が、今にもジジジと音をたてそうに、海に吸い込まれていく。彼女は沈みゆく一日を眺めながら、サンダルを脱いで、細く長い指に掛けた。
まだ、海水は冷たかっただろう。それでも遥は、薄く揺れる水面に足を浸して歩いた。
陽の光が細かな線となって彼女と重なると、これまで見たことがないほど、遥は美しい横顔を見せた。不意打ちだったからか、それを目にした途端、私の涙腺は思いきり緩んだ。気付かれぬよう、慌てて袖で拭う。そして更に日は沈み、互いの表情が読みづらくなったころ、波に掻き消されるよりわずかに大きな声で、私は別れを切り出した。
その言葉が、彼女の耳にきちんと届いたのか。また、耳に届いても、言葉の意味を理解できるほど説得力を持ったものだったのか、心配になった。
「え、何?」と聞き返されたら、きっと「なんでもない」と誤魔化してしまうと思った。それほど、脆く、儚い決意だった。
彼女は、先ほどスペイン料理店で「続編のほうが面白かった映画の話」で盛り上がっていたときと同じように穏やかな笑顔で遠くを見ていたが、その瞳は、徐々に湿度を増していくことがわかった。
「どうして……?」
流れる涙を見せないように、こちらを振り向くことなく、私が大好きだった細い指で顔を覆って俯きながら、震えた声で私に尋ねる。
「なんで?」「どうして?」その二語が、延々と続いた。私も、まるでオモチャ売り場に置かれたオウムのぬいぐるみのように、その全ての問いかけに「ごめん」とだけ返した。
そして最後にひとつだけ、別れの理由を告げた。
「君に支えられているのが、苦しくて、つらいんだ」
*
遥と私は、決して不仲だったわけじゃない。付き合い始めのころから多かれ少なかれ喧嘩はしたが、その度お互いを理解し、歩み寄り、認め合ってきた。
横スクロールのアクションゲームが好きで、一緒に暮らし始めたころは、有名タイトルの新作が出るたびに買ってきては『スミノフ』や『ほろよい』をフローリングに置いて、夜更け過ぎまでコントローラーを握り続けた。
休日は昼過ぎに起きれば買い物に出かけていったし、3週間に一度は彼女の趣味だったフィルムカメラの現像に出かけた。私たちはそうして、ごくごく普通な恋人同士の生活を送っていた。
ただ、舞台役者になるために、本格的に稽古を始めるようになって2年。練習と生活費の工面で多忙はピークを極め、恋人として一緒にいられる時間は明らかに激減した。精神的に追い込まれていき、彼女から送られる「きっと大丈夫」と「頑張って」、「無理しないで」の3語が、いつしか自分への重しになっていたのだった。
「だから、ごめん」
自分勝手にも、程がある。
そうわかっていても、彼女との生活を終わらせなければ、自分がつぶれてしまうと思った。
彼女の足元を浸す波は、夜になるにつれて徐々に高くなっていった。
まるで小火が大きくなるように、私たちの恋も、そのまま飲みこんでしまいそうだった。
*
遥は家を出ていく日にも、いつもと変わらぬ様子を見せた。特別寂しい表情をすることもなければ、わざと元気に振る舞う素振りも見せなかった。いつだって自然体で、わざとらしさのない優しさと、自分で決めた道を信じられる強さを持った人で、私はそんな遥だからこそ惹かれていた。
「じゃあ、行くね」と言った後、付け足すように「お世話になりました」と頭を下げると、後は一度も振り返ることなく、徐々にその影を小さくした。
喪失感に襲われたのは、玄関にわずかに残った彼女の残り香を嗅いだときからだった。
ふたりでは狭すぎた1DKが、ひとりになった途端、広すぎるくらいに思えた。どれだけ泣いても戻りはしない時間を想って、更に泣いた。
そして、涙が枯れてから7日経った今、私は一通の手紙をしたためることに決めたのだった。それは、感謝の手紙でも、謝罪の手紙でもない。ただただ「もう一度会いたい」と願って書いた、矛盾だらけで、何の価値もない手紙だった。構成もめちゃくちゃで、最後まで読んでも、何を伝えたいのかよくわからないものだった。
しかも、7日間ひたすら「会いたい」と思わないように生きてみて、それでも押し殺せなかった感情と願望を殴り書いたその手紙は、結局、彼女に届くことはないのだった。
*
「あて所に尋ねあたりません」
遥への手紙をポストに投函して3日後。郵便局の判子が押されて戻ってきた封筒は、投函したときよりも少し薄汚れたように思えた。
封筒に記載された住所は、何度確認しても以前彼女から聞いていたそれに違いなかった。
―――いつの間に、退去していたのか。
そんなことも知らされてなかった過去の自分を、憎んだ。
メールアドレスに、SNSアカウント、電話番号とLINE
IDと、現住所。
人の所在と連絡先は、5つ抑えてしまえばほぼほぼ絶つことができるのだと、このとき初めて知った。そして、もう二度と彼女に会えないし、連絡も取ることができないとわかると、また押し殺していた“会いたい”という醜く美しい感情が、爆発的に成長していくのだった。
*
「待って」
声をかけられたのは、彼女の元まで届かず戻ってきてしまった手紙を、近所の手ごろなゴミ箱に捨てようとして、10分ほど彷徨っていたときだった。
目にかかるかかからないかの前髪に、全身黒の出で立ち。ラフではあるが、だらしなさを感じさせない格好に身を包んだ青年が、手を伸ばせばすぐにでも触れそうな距離に立っていた。
不慣れな距離感に、思わずたじろぐ。
「その手紙、彼女に届けられるとしたら、どうします?」
男は、あたかも手紙の存在を、その内容すらも最初から知っているように話した。
「え?」
「あ、いや、怪しいものではないんです。ただ、途方に暮れていそうだったので」
「あの、あなたは……?」
同い年か、それよりも若くも思えた。それなのに、何故か彼からは、ある種の威厳のようなものすら感じられた。
「ポストマンと、呼ばれています」
「ポストマン?」
「はい。みなさんの手紙を、届ける仕事をしています」
「ああ。郵便屋さん?」
「そうとも、言われますね」
青年は、何故か少しバツの悪そうな笑顔を浮かべ、曖昧に濁した。
「でも、この手紙はもう、宛名がわからないと言われたんです」
「それは、郵便局に言われたんでしょう?」
「え、郵便局とポストマンは、違うんですか?」
手紙を届ける職業は、郵便屋以外にあっただろうか? 宅配業者もあり得ると思ったが、彼の風貌を見るに、とても仕事中のそれとは思えなかった。
「まあ細かいところは置いておいて……」そう言いながら、彼は季節外れの赤い手袋に包んだ右手をそっと差し出す。
「せっかく想いを伝えようと思ったんですし、その手紙、僕に預けてみませんか」
*
「会いたいですけど、どんな顔して会えばいいのか、わからないんです」
気付けば私は、ポストマンと呼ばれる男と、遥が別れを告げたあの海まで来ていた。自宅からは決して近い距離ではなかったのに、その間、彼と何を話したかがまったく思い出せない。
「向こうも、会いたいと言われても、戸惑うだけだと思います」
「どうして、そう思うんです?」
「彼女を拒絶したのは私でしたし、万が一、帰ってきてくれたとしても、きっと私はまた、彼女を不幸にする気がします」
「そうでしたか」
あの日と同じように、夕暮れが迫る。
輪郭がぼやけた遥が脳内で自動再生され、胸の奥が布を絞るようにぎゅっと音を立てた。
「手紙も、何故か、返ってきて少しホッとしたんです。届いていたら、もしかするとまた、彼女を惑わせていたかもしれない」
「でも、それでも、会いたかったんでしょう?」
ポストマンは私の返事を絶対に急かさなかった。雨が上がるのを待つように、のんびりと待った。
私は目をつむって、また遥の顔を、声を、指先を、匂いを、脳内に刻銘に描いた。
「まだ彼女を好きなこと、どうにか嘘にしたかった。でも、どれだけ嘘を重ねても、会いたいという事実だけは、嘘にできませんでした」
日は、完全に暮れた。
*
結果的に、手紙はライターで燃やして、捨てた。
ポストマンも、何度か「勿体ない」と言ったが、話を最後まで聞いたうえで、破棄することを納得してくれたようだった。
「あなた自身は、幸せになれると思いますか?」
最後にポストマンは、夕日に話しかけるように尋ねた。
「僕が、幸せにですか?」
「ええ。遥さんを諦めて、幸せになれると思いますか」
尋ねられて、改めて幸せとは何なのかを考えた。そしてその後、私は幸せになる資格があるのかどうかも考えた。
「本当の意味での幸せは、彼女が持っていってしまったのかもしれません」
口にしてから、自分が失ったものの大きさに気付きつつあった。
もしも彼女が私にとっての幸せだったとしたら、私は、いま何を得ようとしているのだろう?
ポストマンは、赤い手袋を外すと、手ごろな小石を拾い、それを海に力なく投げた。
「あなたは本当に大切なものを、失くしてしまったのかもしれないです」
それがさも当たり前のことかのように、黒服はこちらを見ずに続ける。
「でも、手紙を渡さなかったあなたは、想いを届けられなかった人たちの気持ちを、わかってあげられる人になったと思います」
急にこちらに振り向くと、先ほどまで身に着けていた赤い手袋を、おもむろに前方に突き出した。
「ラブレターズ・ポストマン。僕は、ラブレター専門の執筆・配達代行業をやっています。
貴方と同じ日本人だけど、なぜか社員には、アダムと呼ばれてます」
理解されないことを前提に置いたようにそこまで話すと、一呼吸置いてから、私の目を見て言った。
「ポストマンとして、一緒に働きませんか」
世の中は、知らない職業で溢れている。
私の仕事は、この日から始まった。